
※登場人物は全て仮名です。
娘の初めてのピアノ発表会。会場は区民ホールの小さなホールで、保護者席はすでに8割方埋まっていた。私は膝の上に、3,500円の花束を大事に抱えていた。
白とピンクのバラ、かすみ草、グリーンの葉っぱ。花屋さんが「お子さんのお祝いですか? でしたらこちらがおすすめです」と勧めてくれた、間違いのない一品だ。
ちなみにこの花束、ラッピングがちょっと派手すぎる気もしたのだが、花屋さんが「今はこれが主流なんですよ」と言うので、そうなのか、と納得して買った。私の感覚が古いだけなのだろう。たぶん。
隣の席には、娘の同じクラスの女の子のお母さんが座っていた。軽く会釈を交わす。彼女の膝の上には、透明なセロファンに包まれた、何やらカラフルな物体が乗っていた。
最初、造花か何かだと思った。でもよく見ると、どうも違う。棒状のものにカラフルな包み紙がついている。リボンで束ねられて、ブーケのような形になっている。
「…あれ、お菓子?」
そう気づいた瞬間、開演のアナウンスが流れた。
娘は5番目の出演だった。『きらきら星変奏曲』。練習では何度も間違えていたが、本番は緊張しながらもなんとか最後まで弾ききった。
客席に戻ってきた娘に、私は花束を差し出した。
「頑張ったね」
「ありがとう、ママ」
娘は花束を受け取り、少しはにかんだような笑顔を見せた。良かった。喜んでくれた。
と思った矢先。
隣の女の子が演奏を終えて戻ってきた。そして、あのカラフルなブーケを受け取った瞬間——。
「わぁあああ! すごい! これチョコレート!? ママ、ありがとう!」
声がでかい。
周囲の子どもたちが一斉に振り向いた。そして群がった。まるでハイエナの群れである。いや、ハイエナに失礼か。とにかくすごい勢いだった。
「見せて見せて!」「これグミ? キャンディもある!」「めっちゃ可愛い!」
ちなみに私はこの瞬間、自分の花束が急に色褪せて見えた気がした。気のせいではない。実際に色褪せて見えた。というか、娘も完全にそっちを見ていた。
花束を抱えたまま、じっと、隣のお菓子ブーケを見つめる娘。
その目が、すべてを語っていた。
「お花、綺麗だね」
帰りの車の中で、娘がポツリと言った。
「うん。ママ、お花屋さんで一生懸命選んだんだよ」
「ありがとう」
娘は助手席で花束を膝に乗せたまま、窓の外を見ていた。
ちなみにこの時、私は心の中で「でもお菓子のほうが良かったんだろ?」と問いかけていた。もちろん口には出さない。出したら負けだ。何に負けるのかは分からないが、とにかく負けだ。
花束は家に帰ってから花瓶に生けた。リビングのテーブルに置いたそれは、確かに綺麗だった。でも娘は一瞬見ただけで、さっさと自分の部屋に行ってしまった。
その夜、私はこっそりスマホで検索した。
『お菓子 ブーケ』
出てきた画像の数々に、私は絶句した。
可愛い。めちゃくちゃ可愛い。
しかも値段を見ると、1,000円台から2,000円台。中には500円で作れる手作りキットまである。
レビューを読むと、「子どもが大喜びでした」「花束より実用的」「食べ終わったあとも写真に残る」と絶賛の嵐。
ちなみにこの時点で、私の脳内では「なぜ私はこの選択肢に気づかなかったのか」という自問自答が始まっていた。答えは出ない。出ないまま、ひたすらスクロールを続けた。
翌週、スーパーに行ったときのことだ。
入り口近くの特設コーナーに、『お菓子ブーケ手作りキット』が山積みになっていた。
値札を見る。980円。
「…私が買った花束、3,500円だったんだけど」
思わず声に出してしまった。隣でカートを押していた見知らぬおばさまが、チラリとこちらを見た。気まずい。
キットの中身を確認すると、ラッピングペーパー、リボン、透明セロファン、お菓子を固定するスティック、さらにはミニカードまでついている。至れり尽くせりである。
その隣には完成品も並んでいた。1,280円、1,580円、1,980円。どれも可愛い。そして明らかに、子どもウケしそうだ。
なぜ私は、花束しか選択肢がないと思い込んでいたのか。
冷静に考えてみた。
私が子どもの頃、何かの発表会でもらったのは確かに花束だった。それが当たり前だと思っていた。お祝い=花。この方程式が、30年以上私の頭の中に刷り込まれていたのだ。
でも時代は変わった。
6歳児にとって、生花は2日で枯れる。食べられない。正直、持て余すだけだ。それに比べてお菓子は、食べられる。友達とシェアできる。写真映えもする。
完全に、お菓子ブーケのほうが合理的である。
ちなみにこの結論に至ったとき、私はスーパーの特設コーナーの前で、手作りキットを3つカゴに入れていた。1つは娘の誕生日用、もう1つは予備、最後の1つは練習用だ。我ながら学習能力が高い。
娘の7歳の誕生日。
私は前日の夜、キッチンのテーブルで黙々とお菓子ブーケを制作していた。
娘の好きなチョコレート、グミ、ラムネ、マシュマロ。それぞれをスティックに固定し、ラッピングペーパーで包み、リボンで束ねる。
制作時間、約30分。
完成したそれを見て、私は満足げに頷いた。悪くない。いや、かなり良い。花屋の花束に負けない出来栄えだ。予算は1,500円。コスパも最高である。
当日、娘にそれを渡した瞬間。
「ママ! すごい! これ全部食べていいの!?」
満面の笑み。
この笑顔である。この笑顔が欲しかったのだ。
しかもその後、誕生日会に来てくれた友達も「いいなぁ〜!」「私も欲しい!」と大盛り上がり。ママ友たちからは「それ、どこで買ったの?」「手作り? すごいね!」と質問攻めにあった。
ちなみにこの時、私は内心でガッツポーズをしていた。勝った。何に勝ったのかは分からないが、とにかく勝った。
あの時の発表会で、私が「ちゃんとしたギフト」にこだわって選んだ3,500円の花束より、明らかに今回のお菓子ブーケのほうが娘の心に刺さっていた。
それ以来、私はあらゆるイベントでお菓子ブーケを活用している。
卒園式、お友達の誕生日会、ピアノの発表会(2回目)、さらには親戚の子どもへのプレゼントまで。
花束が悪いわけではない。花束には花束の良さがある。でも、相手が本当に喜ぶものを考えたら、お菓子ブーケという選択肢もあったのだ。
それに気づくまで、30年以上かかった。
恥ずかしい? もちろん恥ずかしい。でも、気づけて良かった。
そして今、私のキッチンには常に手作りキットのストックがある。もはや常備品である。
娘はと言えば、あの時の花束のことなど、もうすっかり忘れている。でもお菓子ブーケのことは、写真を見ながら「あの時楽しかったね」と今でも言ってくれる。
それで十分だ。
花束至上主義者だった私は、今日もスーパーの特設コーナーで新作のお菓子ブーケキットをチェックしている。